いずむうびい

テキトーなブログ。

しっちゃかめっちゃかになる『君の名は。』

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カラオケへ行くと高確率で「泣く、泣く」という歌を聴かされるRADWIMPSの言葉を並び立てた感じが相当好きじゃなく,新海誠という作家にも何やら「触るなキケン」を感じて今までひとつの作品も見ていなかったのだけど,『君の名は。』が公開されるやいなや異例の大ヒットを飛ばし,いちおう予告編で気になってはいたので神木くんだし長澤まさみだしと見に行ってみた.結果,失敗.鑑賞中にこれほどむかむかさせられたのは久しぶり.まるで時間を奪われたような,そんな場所へ来たのが間違いだったような,自分はこの映画にとっての「お客さん」ではないなとひしひしと感じる.画面からどんどん突き放される疎外感を味わわされる映画だった.

 

ひとことでいえば,この映画のアプローチのすべてを気に入ることができなかった.

 

「目が覚めると見知らぬ男・女の身体に入れ替わっている」.このシチュエーションに対するアプローチが「自分だったらどうするだろう?」ではなく,「男女問わず平均的な理解を得るのはどんな描写だろう?」なのだ.瀧も三葉もそれが不自然であるにも関わらずあまりに自然に「バレないように振る舞う」.ご飯をどれだけよそるか,一人称は何なのか.「なぜバレてはいけないのか?」をぼやかすように無視して,あたかもそうでなければならないと進んでいってしまう.まず掴みの部分でこれが最大の障壁となってしまった.ボクだったら乳揉みは見られないようにやるし,バレないようにするにしても妹の四葉から根掘り葉掘りいろいろ聞いて振る舞う.つまりシチュエーションものとして楽しむ余地は早々に消失し,それについていけるかどうかということになっているわけだ.ついていける人間は2人が何を思うか?に注意し,2人の一挙手一投足を観る.ついていけないボクはまだシチュエーションとして観ているので「お前は誰だ?」の文字に宿った時空にその後の展開を見てしまい,それを勿体ぶる展開に苛立ってしまうのだ.

 

そもそも一度「なぜ?」を突き付けてしまうとすでに入れ替わりという超常現象が起きているわけだから,それにすら説明を求めなければいけないので「なぜ?」はこちら側として禁止されているのだ.なぜ男女の入れ替わりが起こるのか?とは思わないのに,なぜ震災のことに気が付かないのか?と思うのは確かにこちら側に都合が良すぎる.2人がお互いの存在に気付くとあれもダメこれもダメと「禁止ルール」を設けるが,いま思えばあれは「なぜどうしてと考えてしまうそこのあなた。これからはルールを設けますのでどうぞよろしく。」とのご挨拶だったのかもしれない.それにしたって気付くのが遅すぎると思うけれど,この映画はなぜどうしてと頭から入ることよりも心から入っていくことを優先し,それについていけるかどうかということになる.頭から入ってしまうボクは「存在が不透明な相手にどうして会いに行くのか?」になるが,心がわかっている人は会いたい気持ちを求めるから「だからこそ会いに行くんじゃないか?」となる.これは物語の捉え方として大いなる分かれ道だ.それを分かってか糸守には瀧の他にも奥寺先輩と藤井が同行する.「素性のわからないメル友にどうして会いに行くの?」と周囲に言わせることでそれに答える瀧の想いこそ映画の本筋なのだと宣言するために…….わざわざメル友という言葉を意識的に使っているようなノイズが追い打ちとなり,ボクはもうこの時点でライフポイントを消費しすぎて椅子からずり落ちそうになっていた.

 

結局,どう思ったのか?

 

皆目わからんと言いたいところなのだけど,せっかく見たので考えてみると,憂鬱と消失とそれを取り戻そうとする衝動の物語と思う.なんの変哲もない日常を憂鬱としてそれが突然の入れ替わりで動き始めた.どこへ動き始めたのか彗星に導かれるとそれは大いなる消失への案内だった.消えてしまうと分かった途端に消えたくないと強く思いその想いの強さをアニメーションに乗せてみたくなったといったところだろう.その意欲は買うし,心意気は称賛に値する.震災をリセットできるかもしれない機会を得たらダメと分かっていてもやってしまうだろう.けれど,それを納得してもらおうとのあれやこれやの描写が独り善がりに感じる.結局,瀧くんに付いていく奥寺先輩と藤井もそうだが三葉(中身は瀧くん)を手助けするてっしーと早耶香ちゃんが可哀想なのだ.物語の要請だけでその世界に配置された人物のようで.奥寺先輩やてっしーの恋心ってどうなってしまうんだろうって思う.のちに指輪を見せたり早耶香ちゃんと結婚式の相談をしていたり,そんなことで片付けてしまっていいのだろうか?って思う.物語的にキャラクターを閉じ込めて殺しているようなそんな気がしてならないのだ.死から逃れるだけが救済なのか?君の名はと流れる衝動と消失はほんとうに取り戻すべきものなのか?と.しっちゃかめっちゃかな気持ちにさせられる映画だった.

 

あと,これは単なるカンだけど三葉がとつぜん髪を切るのは『涼宮ハルヒ』シリーズと関係があるような気がするから未見なので近々チェックしてみようと思っている.単純にあの三葉とハルヒの見た目が似てるので.

 

しかし,ことしはアニメ映画を楽しむことに苦しんでいる.『アーロと少年』はドラッギーなシーン以外に何とも思わないし『ズートピア』はもうamiちゃんの歌しか残ってない.『ペット』は楽しんだけれどいろいろなスイッチをオフにして楽しんだまでだ.『ファインディング・ドリー』は良かったけれど10年以上前の映画のそのままの続きが求めていた続編なのかと思えば違うと思う.というわけで,『君の名は。』と同じく岐阜県を舞台にした京アニの『映画 聲の形』がことしの自分にとってのアニメ大本命として控えている.良い機会だから9月6日の試写会まで涼宮ハルヒシリーズを観て過ごすのもいいかも.いま,そんなことを思っています.おわり