いずむうびい

テキトーなブログ。

ヴィランズ・リジェクト『スーサイド・スクワッド』

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映画を見るときの心構えとして序盤の20分ほどは掴みの時間でそこでの描写はその映画の方向性やある種のルールを説明してもらえる時間だと思っている.この時間に納得できるかどうかで映画を楽しむことができるかも大抵決まる.

 

スーサイド・スクワッド』は,見る前にやたらと不評を目にした.「悪人に見えない」「描写が継ぎ接ぎでノリきれない」「あれほどマーベルを敵対視していたのにガーディアンズオブギャラクシーと同じ音楽を使用しているのはオカしい」.おおむねこのような意見だった.今思えばこういった意見を目にしてしまっている時点ですでにボクにとっての『スーサイド・スクワッド』の掴みの時間は始まっていて,映画を見るときのタイミングや心情は本当にその映画の印象を左右するなと改めて思った.

 

この映画の方向性も冒頭で語られる.

 

「彼らの人間の部分よ」

 

スーサイド・スクワッド』がメインに据えるのは彼らの人間性だ.確かに登場する悪人は悪人とは呼びづらく家族想い・恋人想い・仲間想いの輩ばかり.イカれた野郎どもが暴れ回るどんちゃん騒ぎを期待すると拍子抜けしてしまう.しかし,そもそも悪人が悪人らしく生を全うすると『デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2』(2005)の様になる他ないのだろう.ボクの中に「映画においての悪」として中心に位置する映画だからというのもあるけれど,ウィル・スミスの髭ヅラやハーレイ・クインジョーカーのメイクから『デビルズ〜』を想起してしまった.その再現にはこだわらず,この映画は悪人が悪人だった過去を捨て改心していく姿=悪人としての自殺を描いている.

 

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スーパーマンが神格化された世界は『ウォッチメン』(2009)でそう描かれたように世界のパワーバランスが整っている.悪ぶった発言や威勢のいい態度,小馬鹿にした軽口,そのようなことばかり彼らはしているがもうそれでしか自分の存在証明をする手立てがないのだ.スーパーマンが現れる以前は悪人として悪人らしく振る舞うことで世界に悪人として存在証明することができた.だが,スーパーマンが現れてしまったことで自分の存在は矮小化した.狂ってヤケになって死ぬか『デビルズ〜』のようにそれでも悪を謳歌するか.そのどれをも拒絶しなければ生きる道はなくなってしまったのだ.

 

それらを踏まえると,札束に命を救われたキャプテン・ブーメランが何を思ったのかに考えが及ぶし,妖刀に話し掛けるカタナは何故そんなことをしていたのかに興味がわく.ひょっとしたらエル・ディアブロが炎を繰り出す姿を見てキラー・クロックは自分を受け容れたのかもしれない.集団行動をどこかくすぐったそうに色々とはみ出そうとするハーレイ・クインが素の自分を周囲に見せることを憚るのは自信がないからだ.あえて先陣を切ったりわざとミスをしたりリーダー格のデッドショットはそもそも娘にやめてと言われて従ったときにもう悪人ではなくなっていたのだろう.

 

スーサイド・スクワッド』は悪という大義名分を捨てはみ出し者として生きることを選んだ悪人と捨てきれずに世界を憎悪することを選んだ悪人による意地の張り合いだ.イナフ!彼らの行く末,シリーズの続きを楽しみにしている.