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いずむうびい

テキトーなブログ。

地球に落ちてみた男『溺れるナイフ』

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原作はタイトルに何となく聞き覚えがある程度で通ってこなかったが映画はドンズバ.めちゃくちゃ面白かった.ことし31歳になる人間なので今さら若者の気持ちなんか理解するつもりないし,弱冠27歳の山戸監督の込めた想いや念の強さなどはボクよりもずっと下の世代に向けられているだろうから横目線で楽しませてもらった次第だ.

 

昔,どこかの誰かが「映画は何も映さないほうがいいのだ」と言っていたことが記憶に残っている.その真意は定かではないがボクはその言葉を「映画は語りすぎないほうがいい」ということだと捉えている.いわゆる「難解」なものを持ち上げるわけではない.難しいと感じさせる映画は観客に難しいと思わせる何かを「説明してしまっている」から,それには当てはまらないのだ.第一に映像であることが条件である映画において「何も映さない」とは登場人物たちの想いを汲み取り,登場人物たちの言葉や主張以上のことにカメラやカット割りが介入しないほうが映画が“らしくなる”ということだと思う.

 

コウちゃんは夏芽の「好き」という想いに応えない.付き合ってるんだよねという問い掛けにもそうだなーと言うがそこに気持ちはない.コウちゃんは何を想い何を考えているのか.この映画はその行方を映したり追いかけたりしない.する必要がないからだ.それは映画が映さずともコウちゃんを想う観客が想いを馳せて辿り着けばいい感情なのだ.夏芽を想う大友にしたって観客と夏芽に明らかにその恋心の存在を察知されてからなんと夏芽に「好きにならないで」と逆告白をされてしまう.そのときの心境たるやとは思うのだが映画はそこを掘り下げない.大友と適度な距離感を保ちながら当たって砕けていくさまを見つめ続ける.カナちゃんにいたっては夏芽とコウちゃんに付き合ってもらうことで「擬似恋愛で満たされたい願望」を持っていたとは思うのだが映画はそこまで揺さぶらない.カナちゃんは映画に映っていないところでほとんど独りでその想いを育んでいたのであろう.だから,火祭りの日には誰よりも過敏になっていたのだ.夏芽の想いなんて「好き」と「呪い」でぐしゃぐしゃになっているはずなのだが夏芽自身にもその整理はついていないし,彼女の親も「信じるしかない」と突き進んでしまう.しかし映画はそれを語るでなく適切な体温で撮り続ければいいのだ.

 

4人の中からボクが誰か1人選ぶならコウちゃんだ.彼の「特別さ」は何だろうと思う.自然は好きにしてええんじゃってのは人間が言うから違和感があるだけでコウちゃんはたまたま人間の姿で現世を生きている何かの別の魂を持った青年なんだろう.それにしても山戸結希監督,とてつもないセンスの持ち主だ.また1人注目せねばならない監督さんが現れてしまったなぁ.今年なんべん言ったか分からないが日本映画がほんとうに面白い.おわり

ボーン・ステートメント『ジェイソン・ボーン』

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ざっくりボーンシリーズに感じている魅力を言うと「主従関係」という言葉に尽きる.ジェイソン・ボーンはCIAのある計画によって生まれた存在だ.その事実を突き止めたい真相を確認したいのがボーン側でそれを隠し通したい揉み消したいのがCIA側という対立構造を前提に「追う/追われる」という主従関係が成り立っているのだが,画面を見続けているとそれがいつの間にか入れ替わっているのが面白い.

 

いつの間にかボーンが「追わせている」ような展開になり,ボーンに「見られている」ことにCIA側と共に気付く.終わってみればボーンに「追いつめられている」のが常でボーンシリーズの巧みさだった.通常のアクション映画のように主人公に肩入れして気持ち良く応援するような感覚にはあまりならないサスペンスとの融合が見事なシリーズだった.

 

そんな3作を経て,今回新章としてスタートしたジェイソン・ボーンなわけだが,映画としての「質」や「趣」といったものはまるで違うものになっていた.今回のジェイソン・ボーンは弱い!弱くなった!なぜ弱くなったのか?それは明白だ.

 

前3作までは「記憶」を取り戻そうとしていたから自分の潜在能力や行動原理といったものが自分にも分かってはいなかった.限界など知らなかったのだ.身体に染み付いた「本能」のみで追っ手をやっつけるさまにジェイソン・ボーンのマシーン性があった.

 

しかし,今回は記憶に若干の肉付けはあるものの取り戻したいと切望していた部分は獲得済みで自分がどういう人間なのかは理解してそののち数年間は自分の力を食うために使っていたというのだ.ストリートファイトで銭を稼ぐ姿からは前3作のマシーン性は消え去り,代わりに残ったのは微かな人間性だ.ボーンは普通の人間になりつつあった.だから弱くなっているのだ.

 

そんな彼が普通への逃避行をやめて再び奮起していくさまが面白くないわけがない!『ボーン・アイデンティティー』(2002)で得た生活も『ボーン・スプレマシー』(2004)では砕け散り,『ボーン・アルティメイタム』(2007)にも救いはなかったのだ.過去の記憶,自分自身の中にある自分自身にも分からないものに拘るのはもうヤメにしよう,これからのジェイソン・ボーンはどう生きていこう,いまさらになるがジェイソン・ボーンの「ボーン」には「誕生」のダブルミーニングもあるだろうから1作目から14年の時を経てもう一度時計の針を進めよてみようという志がこの映画にはある.そんなものがつまらないわけながなかった!

 

分かりやすく目に優しいアクションの見応えには陰りがあるものの,ボーンに対して新たな解釈,違った印象を持つ者が現れる世界にはしっかりと「ボーンシリーズ」の核である「変わり続けるジェイソン・ボーン」があった.「考えておく」の一言がシビれるのはボーンはもう全てを受け入れてボーンとして生きていくけれどもあなた方の動向は都度確認させてもらうし裏にある思惑には一切付き合う気はないよという宣言をシンプルに伝えているからだ.出世意欲の強いアリシア・ヴィキャンデルが積み上げた「信頼」なんてもんが一発で崩れ去っていく爽快感.この映画は1本分の時間をかけて「考えておく」というボーンの保留をもってして幕を閉じる.なんて格好いいんだろう.何年先なのか分からないがジェイソン・ボーンシリーズ大歓迎.何作でも心待ちにしようと思う.おわり

今度会うときもまたねと言おう『映画 聲の形』

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繰り返される波紋の描写は「音の共鳴」であり,その音には発声だけではなく声にならない感情も含まれている.それぞれの「聲の形」が描かれている.自分という人間の輪の広げ方,自分のテリトリーをどこに置いてどこで線引きを行うのか.自分を象るのは他者との距離感でしかなくそれをしなければ人間形成することは難しい.コミュニケーションとは人間形成をしていくうえで必要不可欠なものなのだ.

 

この映画の登場人物はコミュニケーションのスタート地点に戸惑っている.「相手を理解しなければならない」「どうすれば相手に理解してもらえるのか」.始まりはすべて「相手」にあると思っている.だが,コミュニケーションをはかるにはまず「自分の影響力」を知らなければならない.そしてそれを知るには「自分の思い」に正直に素直でなければならない.

 

どうせアイツらにとって自分はこうだからと将也は周囲に✕マークでレッテル貼りをしてしまう.私といるとみんな不幸になるから私は私の本音を出してはいけないと硝子は自分にレッテル貼りをしてそんな姉を想う結弦は姉を想うばかりで自分自身の孤独感やジェンダーから目を逸らしコントロールできないでいる.植野は相手を傷付けることで自分のテリトリーを守り,川井は安全圏に身を置いている安心感を前提にして物を言う.将也が自転車の件で声をかけてくれなければ永束くんは行動に移さなかっただろうし,佐原さんはそんな喧騒から逃げるしかなかった.真柴くんはキャラが薄目に思えるが,彼がどうして石田くんと友だちになりたいなどと言ったのかを思えば,それは石田が自分にとって当たり障りのない存在だと思ったからだろう.全員がそれぞれの波紋,輪,テリトリーに気を配り,どうすればそれを修繕できるのか,解決するには自分以外の誰が適任かといったことばかり考えている.

 

彼らがなぜそうまでしてコミュニケーションをはかろうとするのか.それは「過去の精算」のためだ.小学生の頃は止めることができなかった分かっていても何もすることができなかった.その「やり直し」の物語だ.妙にリアルな描写がされるジェットコースター「ホワイトサイクロン」で佐原さんはこう言う.「あのときは怖くて何もできなかったけど今度は怖くてもやってみようって思う」.長い人生,こうした再チャレンジの機会は誰にでもあるが,それは決して甘くはない痛みを伴うものなのだ.

 

子どもたちの過去と歴史がレールとして敷かれているからそこへ大人たちの介入は難しい.子どもの価値観で「ガキなんて産むんじゃねえよ」と言われれば揉み合いで応対するしかないのだ.しかし,子どもたちの問題はきちんと「責任」という形で大人たちに覆いかぶさることはピアスの血と補聴器の血で表現されている.産んだあとで産んだことを非難されてもどうにもできないが産んだことの責任を負うことはできるはずだ.

 

コミュニケーションは難しい.それが過去に関わるやり直しの事柄であれば尚更だ.しかし自分という人間を曝け出すことができればそれを受け入れてくれる人間は現れるかもしれない.その作業は辛く悲しい無傷ではいられない危うさを孕んでいるがだからこそ通じ合えたときは美しく輝く.『映画 聲の形』はそんな心苦しさと心強さを兼ね備えた山田尚子の現時点での最高傑作だった.時間を見つけて何度も映画館へ行こうと思う.おわり.

そこに怒りはあるか『怒り』

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東京・優馬のテーマは「哀しみ」だ.憶測になるが彼はきっと母の死を心の底から哀しむことができていなかった.どう受け止めていいのか,どう振る舞うべきなのか.分からなくて気持ちが落ち込んだ日には早くこんな日々が終わらないかななんて考えてしまっていた.相手に対して自分の想いを寄せ切ることができない男なのだ.だから直人に側にいる代役を頼むし,直人のことも信じ切ることができない.「楽しいフリをしているのが楽しい」と冒頭で言っていたが哀しいフリをするのはさぞ悲しいことだったろう.そんな自分へ向けるのが彼の「哀しき怒り」だ.涙を流しながらそれを表現してくれる妻夫木聡に胸打たれた.

 

千葉・槙親子のテーマは「不幸」だ.自分たちは人とは違う人間だから幸福になることはない.もし幸福を感じたとしてもそれはのちに訪れる不幸の跳ねっ返りでしかない.もっといえば,自分たちのような人間は幸福になるべきではないとさえ思っている.相手のことは全て受け入れたから大丈夫と念じるように思っても結局は自分の幸福を信じ切ることができずに疑ってしまう.しかし,同じ不幸を抱えた者とならばもしかしたらやり直せるかもしれない.救いの機会は訪れる.これまでは幸福になることはない.幸福になどなってはいけない.幸福になってしまってはこれまでの不幸に説明がつかないと希望を見て見ぬフリをしてきた.しかしそれはもうやめる.これまでの自身の幸福への「不都合な怒り」をスクリーンのこちら側へ向ける宮崎あおいの表情に打ちひしがれた.

 

沖縄の物語は純潔なる人の子として泉と辰哉による世界と自分への悔しさを源とした実に真っ当な「怒り」だ.2人に対して田中の「怒り」も描かれるのだが,彼の怒りは屈折しているようでいたってシンプルなものだ.「バカにしやがって!」という独り善がりでどうしようもなく幼稚な怒り.そしてそれらは交わることなく物語は終わる.血文字の「怒り」は当人から語られることなくぽっかりとした空洞のまま幕を下ろす.

 

見終えて思ったのが,さまざまな「怒り」を描くこの哀しくて不幸でやり場のない悔しさと痛みの物語を経て「ボク自身に怒りはあるか?」ということだった.2時間強とはいえ苦楽を共にしたといえるほど感情を揺さぶられておきながら,彼ら彼女たちの幸せを切に願い,決してそうなることはない現実への対抗として怒りを感じるのか?ということだった.残念ながら,そこまでは思えなかった.思うことができなかった.映画の中の登場人物に対して,今までほんとうに考えたことがなかったのかもしれない.彼らがどんなに必死に生を全うしようと観客目線で俯瞰してパズルのピースのように見ていたかもしれない.この映画の役者陣の演技を見ていたら,何だかこれまで見てきた映画たちに申し訳ない気持ちになった.これまで,映画の中の「演技」にこれほど心を奪われたことはなかった.他の映画がどうということではなく,この映画はほんとうに生き物のようだと思った.いくら泣いたって怒ったって誰も分かってくれないじゃん!−−−−思い出す泉の叫びに胸を貫かれた.

 

いやはや,今年の日本映画はほんとうに面白い.『シン・ゴジラ』のベストは揺るがないだろうが年間ベストがほとんど邦画で埋まってしまうことは確実だ.アニメーションでも『君の名は。』がジブリ以外のアニメで初の100億円突破間近という作品の好き嫌い関係なく喜ばしいニュースがある.新しい時代,新しい映画の始まりを予感している.変わらないものは変わらないだろうけど変わるものは変わるのだ.そんなことを思う2016年秋のはじまり.

戀をしたのは『映画 聲の形』

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恋をするとツラい.その気持ちがどういった仕組みでどんな作用を自分に及ぼしているのか分からなくてツラい.けれどそれは紛れもなく自分の気持ちで相手に対する自分の真っ直ぐな気持ちで処理できるのは自分自身でしかなくて.

 

ツラいのに慣れてくると恋と向き合う.そもそも自分はどうして恋をしたのか.あの人を想い始めたのはいつからだったか.それはいつの日か来るかもしれない告白の場において整理しておくべき事柄なのではないか.そういった抱え込みが過ぎると恋をしてる自分が好きなのではないか?恋に恋するとはこのことではないか?なんてことを考え始める.しかしそれらは恋をしたと分かってからでないと−−−恋をした経験が備わっていないと出来ないことでもある.

 

主人公・石田は西宮とのファーストコンタクトで宇宙人を思い浮かべる.それまで生きてきた自分の世界には存在していなかった存在との遭遇を意味する描写だ.「おもしろい!」聴覚障害を持つ西宮のことを石田はそう思った.それから「いじめ」や「友だち」などの人間関係を経て,最終的には石田自身が西宮への想いに気が付いていく.そういう物語と思った.

 

石田が手話を覚えるのは西宮とコミュニケーションを取るためだ.何のためにコミュニケーションを取るのか.これが石田自身もよく分かっていなかった.西宮の妹から善人ぶりたいつもりならやめてくれると言われれば申し訳なく思うし,植野からいじめの贖罪のつもりと揶揄されればそれにも申し訳なく思う.すべてがピースとして当てはまるがどれも石田の気持ちを代弁してくれるものではなかった.

 

石田が西宮へ抱いたのは恋だった.しかし石田にはそれがわからなかったのだ.おもしろい!という感情でしかなかった.ノートを返すべきだと言うほかなかった.あのときのことを謝りたいと思う以外に説明がつかなかった.恋なんてしたことがなかったから.

 

聲の形の漢字に目を引かれるが「恋」という字は「戀」と書くそうだ.つくりを見ると「心」の上に左右に乱れた「糸」とその中央に「言」がある.糸のほつれた心の均整を保つにはそのことを伝えるほかないのだ.伝えるためには自分がどうしてそのようなことを想うのかきちんと言葉にして整理しておかなければならない.乱れたままの想いはどんな手段を用いても相手に伝えることはむずかしいから.

 

西宮を見て石田が思ったのはきっとこうだ.

 

「オレと同じだ」

 

名前の似た2人は生きていくうえで脆さを抱えた人間だった.それを隠すようにいじめ行為に走るということは子どもなら当然のようにあるし,いじめとまではいかずとも本心とは真逆の行動を取ることは多くの人間によくあることだ.自分だけだと思っていた世界に現れた西宮に心かき乱され,そのときはそれと気付かなかったけれど恋をしたのだ.一人で生きていけないのは自分だけではなかった.ならば,その二人で生きていけばいい.だから,石田の告白方法は「生きるのを手伝ってほしい」になっている.

 

恋をするとツラい.一人では抱えきれない.だから,一緒に生きてほしい.『聲の形』はそれが初恋ゆえに回り道をする者と初恋ゆえの性急さに戸惑う者の想いの必然性が美しい物語だった.それにこだわったaikoの主題歌はほんとうに素晴らしい.大傑作.

ヴィランズ・リジェクト『スーサイド・スクワッド』

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映画を見るときの心構えとして序盤の20分ほどは掴みの時間でそこでの描写はその映画の方向性やある種のルールを説明してもらえる時間だと思っている.この時間に納得できるかどうかで映画を楽しむことができるかも大抵決まる.

 

スーサイド・スクワッド』は,見る前にやたらと不評を目にした.「悪人に見えない」「描写が継ぎ接ぎでノリきれない」「あれほどマーベルを敵対視していたのにガーディアンズオブギャラクシーと同じ音楽を使用しているのはオカしい」.おおむねこのような意見だった.今思えばこういった意見を目にしてしまっている時点ですでにボクにとっての『スーサイド・スクワッド』の掴みの時間は始まっていて,映画を見るときのタイミングや心情は本当にその映画の印象を左右するなと改めて思った.

 

この映画の方向性も冒頭で語られる.

 

「彼らの人間の部分よ」

 

スーサイド・スクワッド』がメインに据えるのは彼らの人間性だ.確かに登場する悪人は悪人とは呼びづらく家族想い・恋人想い・仲間想いの輩ばかり.イカれた野郎どもが暴れ回るどんちゃん騒ぎを期待すると拍子抜けしてしまう.しかし,そもそも悪人が悪人らしく生を全うすると『デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2』(2005)の様になる他ないのだろう.ボクの中に「映画においての悪」として中心に位置する映画だからというのもあるけれど,ウィル・スミスの髭ヅラやハーレイ・クインジョーカーのメイクから『デビルズ〜』を想起してしまった.その再現にはこだわらず,この映画は悪人が悪人だった過去を捨て改心していく姿=悪人としての自殺を描いている.

 

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スーパーマンが神格化された世界は『ウォッチメン』(2009)でそう描かれたように世界のパワーバランスが整っている.悪ぶった発言や威勢のいい態度,小馬鹿にした軽口,そのようなことばかり彼らはしているがもうそれでしか自分の存在証明をする手立てがないのだ.スーパーマンが現れる以前は悪人として悪人らしく振る舞うことで世界に悪人として存在証明することができた.だが,スーパーマンが現れてしまったことで自分の存在は矮小化した.狂ってヤケになって死ぬか『デビルズ〜』のようにそれでも悪を謳歌するか.そのどれをも拒絶しなければ生きる道はなくなってしまったのだ.

 

それらを踏まえると,札束に命を救われたキャプテン・ブーメランが何を思ったのかに考えが及ぶし,妖刀に話し掛けるカタナは何故そんなことをしていたのかに興味がわく.ひょっとしたらエル・ディアブロが炎を繰り出す姿を見てキラー・クロックは自分を受け容れたのかもしれない.集団行動をどこかくすぐったそうに色々とはみ出そうとするハーレイ・クインが素の自分を周囲に見せることを憚るのは自信がないからだ.あえて先陣を切ったりわざとミスをしたりリーダー格のデッドショットはそもそも娘にやめてと言われて従ったときにもう悪人ではなくなっていたのだろう.

 

スーサイド・スクワッド』は悪という大義名分を捨てはみ出し者として生きることを選んだ悪人と捨てきれずに世界を憎悪することを選んだ悪人による意地の張り合いだ.イナフ!彼らの行く末,シリーズの続きを楽しみにしている.

しっちゃかめっちゃかになる『君の名は。』

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カラオケへ行くと高確率で「泣く、泣く」という歌を聴かされるRADWIMPSの言葉を並び立てた感じが相当好きじゃなく,新海誠という作家にも何やら「触るなキケン」を感じて今までひとつの作品も見ていなかったのだけど,『君の名は。』が公開されるやいなや異例の大ヒットを飛ばし,いちおう予告編で気になってはいたので神木くんだし長澤まさみだしと見に行ってみた.結果,失敗.鑑賞中にこれほどむかむかさせられたのは久しぶり.まるで時間を奪われたような,そんな場所へ来たのが間違いだったような,自分はこの映画にとっての「お客さん」ではないなとひしひしと感じる.画面からどんどん突き放される疎外感を味わわされる映画だった.

 

ひとことでいえば,この映画のアプローチのすべてを気に入ることができなかった.

 

「目が覚めると見知らぬ男・女の身体に入れ替わっている」.このシチュエーションに対するアプローチが「自分だったらどうするだろう?」ではなく,「男女問わず平均的な理解を得るのはどんな描写だろう?」なのだ.瀧も三葉もそれが不自然であるにも関わらずあまりに自然に「バレないように振る舞う」.ご飯をどれだけよそるか,一人称は何なのか.「なぜバレてはいけないのか?」をぼやかすように無視して,あたかもそうでなければならないと進んでいってしまう.まず掴みの部分でこれが最大の障壁となってしまった.ボクだったら乳揉みは見られないようにやるし,バレないようにするにしても妹の四葉から根掘り葉掘りいろいろ聞いて振る舞う.つまりシチュエーションものとして楽しむ余地は早々に消失し,それについていけるかどうかということになっているわけだ.ついていける人間は2人が何を思うか?に注意し,2人の一挙手一投足を観る.ついていけないボクはまだシチュエーションとして観ているので「お前は誰だ?」の文字に宿った時空にその後の展開を見てしまい,それを勿体ぶる展開に苛立ってしまうのだ.

 

そもそも一度「なぜ?」を突き付けてしまうとすでに入れ替わりという超常現象が起きているわけだから,それにすら説明を求めなければいけないので「なぜ?」はこちら側として禁止されているのだ.なぜ男女の入れ替わりが起こるのか?とは思わないのに,なぜ震災のことに気が付かないのか?と思うのは確かにこちら側に都合が良すぎる.2人がお互いの存在に気付くとあれもダメこれもダメと「禁止ルール」を設けるが,いま思えばあれは「なぜどうしてと考えてしまうそこのあなた。これからはルールを設けますのでどうぞよろしく。」とのご挨拶だったのかもしれない.それにしたって気付くのが遅すぎると思うけれど,この映画はなぜどうしてと頭から入ることよりも心から入っていくことを優先し,それについていけるかどうかということになる.頭から入ってしまうボクは「存在が不透明な相手にどうして会いに行くのか?」になるが,心がわかっている人は会いたい気持ちを求めるから「だからこそ会いに行くんじゃないか?」となる.これは物語の捉え方として大いなる分かれ道だ.それを分かってか糸守には瀧の他にも奥寺先輩と藤井が同行する.「素性のわからないメル友にどうして会いに行くの?」と周囲に言わせることでそれに答える瀧の想いこそ映画の本筋なのだと宣言するために…….わざわざメル友という言葉を意識的に使っているようなノイズが追い打ちとなり,ボクはもうこの時点でライフポイントを消費しすぎて椅子からずり落ちそうになっていた.

 

結局,どう思ったのか?

 

皆目わからんと言いたいところなのだけど,せっかく見たので考えてみると,憂鬱と消失とそれを取り戻そうとする衝動の物語と思う.なんの変哲もない日常を憂鬱としてそれが突然の入れ替わりで動き始めた.どこへ動き始めたのか彗星に導かれるとそれは大いなる消失への案内だった.消えてしまうと分かった途端に消えたくないと強く思いその想いの強さをアニメーションに乗せてみたくなったといったところだろう.その意欲は買うし,心意気は称賛に値する.震災をリセットできるかもしれない機会を得たらダメと分かっていてもやってしまうだろう.けれど,それを納得してもらおうとのあれやこれやの描写が独り善がりに感じる.結局,瀧くんに付いていく奥寺先輩と藤井もそうだが三葉(中身は瀧くん)を手助けするてっしーと早耶香ちゃんが可哀想なのだ.物語の要請だけでその世界に配置された人物のようで.奥寺先輩やてっしーの恋心ってどうなってしまうんだろうって思う.のちに指輪を見せたり早耶香ちゃんと結婚式の相談をしていたり,そんなことで片付けてしまっていいのだろうか?って思う.物語的にキャラクターを閉じ込めて殺しているようなそんな気がしてならないのだ.死から逃れるだけが救済なのか?君の名はと流れる衝動と消失はほんとうに取り戻すべきものなのか?と.しっちゃかめっちゃかな気持ちにさせられる映画だった.

 

あと,これは単なるカンだけど三葉がとつぜん髪を切るのは『涼宮ハルヒ』シリーズと関係があるような気がするから未見なので近々チェックしてみようと思っている.単純にあの三葉とハルヒの見た目が似てるので.

 

しかし,ことしはアニメ映画を楽しむことに苦しんでいる.『アーロと少年』はドラッギーなシーン以外に何とも思わないし『ズートピア』はもうamiちゃんの歌しか残ってない.『ペット』は楽しんだけれどいろいろなスイッチをオフにして楽しんだまでだ.『ファインディング・ドリー』は良かったけれど10年以上前の映画のそのままの続きが求めていた続編なのかと思えば違うと思う.というわけで,『君の名は。』と同じく岐阜県を舞台にした京アニの『映画 聲の形』がことしの自分にとってのアニメ大本命として控えている.良い機会だから9月6日の試写会まで涼宮ハルヒシリーズを観て過ごすのもいいかも.いま,そんなことを思っています.おわり