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いずむうびい

テキトーなブログ。

この世界に生まれてほんとうに良かった『この世界の片隅に』

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主人公すずにとっては,18歳で嫁に行くことや毎日をやり繰りすることが戦争に対しての抵抗だった.戦争なんかに挫けてなるものか,暴力に屈してたまるものかという想いを抱いている人間が確かにその時代にいたのだという肝っ玉と説得力が素晴らしい.だからそれが打ち砕かれたときはどうしようもなく悔しいし悲しくてやりきれない気持ちになる.不勉強に拠るところなのかもしれないが「敗戦」の中にはこんな感情もあったのかと驚かされる.単純に笑ったり泣きそうになったりするポイントもあるけれど,かつて出会ったことのない物語とそこに流れる感情にただただ圧倒されるばかりの映画だった.

 

圧倒されたあとに頭を駆け巡ったのは「現実対虚構アニメ版」というフレーズだった.今年いちばん好きな映画は『シン・ゴジラ』に確定したのでキャッチコピーになった「現実対虚構」が頭をもたげているというのもあるが,現実対虚構の「現実」には「ニッポン」,いっぽう「虚構」には「ゴジラ」とフリガナが振られていたのでその意味でのみ捉えることが正解だとは思うが,「現実」を東日本大震災とし,「虚構」を『シン・ゴジラ』という映画の心意気と捉えることもできる.そうして称賛される声が映画を後押ししたことは事実だろう.

 

だが,この『この世界の片隅に』を見て,その捉え方は「逆」なんじゃないだろうか?と思った.実は「現実」のほうが「映画」であって「虚構」のほうが嘘みたいな出来事が起こる現実なんじゃないだろうか?もしかして無意識的にそう捉えてしまっているところがあるんじゃないだろうか?

 

911をニュースで見たとき311を肌で感じたときを思い出す.あのとき自分の目にしたものが現実だとは受け止められなかった.ただただ言葉を失うばかりで何を見ているのかわからなかった.それまで生きてきた常識では推し量ることができなかった.現実なのに虚構としか思えなかった.しばらくして現実であることが確定してもまだそう信じきれない.むしろ虚構だと思ってしまっていたほうが納得がいくんじゃないだろうか.虚無感と無力感でいっぱいになって,いつからかその感覚にフタをして,そうすることにも慣れてしまって,見て見ぬフリをしながら今この世界を生きてしまっている.

 

この世界の片隅に』も従来の捉え方というか辞書的な意味でいえば「現実」にあたるのが戦争や原爆で「虚構」にあたるのがアニメーションや漫画といった文化だ.しかし,それも逆なのだと思う.アニメーションや漫画は現実の飛躍でしかないから「現実」なのだ.人智を超えた未曾有の事態が起こりうる可能性を秘めた現実こそが「虚構」なのだ.現実は時として虚構としか思えないものに姿を変えて牙をむく.その対抗手段とはすずの持つ「絵を描くこと」といった現実逃避という名の現実しか無いのだと思う.

 

この世界の片隅にいるわたしを見つけてありがとう」とすずは云った.あれは夫に向けられた言葉だったがこの映画を見に来てくれた観客,この物語と出会った観客に向けても云っていることに間違いはない.いやいや,お礼を言うのはこちらのほうだ.すずのおかげでボクも同じ世界の片隅にいることが分かったし,そこにいても何ができるのか何を失わないべきなのかを教えてもらったような気がする.現実が虚構をどれだけ凌駕しようとも,物語の可能性を信じることだ.嘘みたいなことが起こるのが現実もきっと悪いことばかりではないはずだから.すずの云う「ありがとう」にはそんな意味が込められているように思った.あらためて,この映画をつくってくれた人たちみんなありがとう.もう1回見に行きます.おわり