いずむうびい

テキトーなブログ。

地球に落ちてみた男『溺れるナイフ』

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原作はタイトルに何となく聞き覚えがある程度で通ってこなかったが映画はドンズバ.めちゃくちゃ面白かった.ことし31歳になる人間なので今さら若者の気持ちなんか理解するつもりないし,弱冠27歳の山戸監督の込めた想いや念の強さなどはボクよりもずっと下の世代に向けられているだろうから横目線で楽しませてもらった次第だ.

 

昔,どこかの誰かが「映画は何も映さないほうがいいのだ」と言っていたことが記憶に残っている.その真意は定かではないがボクはその言葉を「映画は語りすぎないほうがいい」ということだと捉えている.いわゆる「難解」なものを持ち上げるわけではない.難しいと感じさせる映画は観客に難しいと思わせる何かを「説明してしまっている」から,それには当てはまらないのだ.第一に映像であることが条件である映画において「何も映さない」とは登場人物たちの想いを汲み取り,登場人物たちの言葉や主張以上のことにカメラやカット割りが介入しないほうが映画が“らしくなる”ということだと思う.

 

コウちゃんは夏芽の「好き」という想いに応えない.付き合ってるんだよねという問い掛けにもそうだなーと言うがそこに気持ちはない.コウちゃんは何を想い何を考えているのか.この映画はその行方を映したり追いかけたりしない.する必要がないからだ.それは映画が映さずともコウちゃんを想う観客が想いを馳せて辿り着けばいい感情なのだ.夏芽を想う大友にしたって観客と夏芽に明らかにその恋心の存在を察知されてからなんと夏芽に「好きにならないで」と逆告白をされてしまう.そのときの心境たるやとは思うのだが映画はそこを掘り下げない.大友と適度な距離感を保ちながら当たって砕けていくさまを見つめ続ける.カナちゃんにいたっては夏芽とコウちゃんに付き合ってもらうことで「擬似恋愛で満たされたい願望」を持っていたとは思うのだが映画はそこまで揺さぶらない.カナちゃんは映画に映っていないところでほとんど独りでその想いを育んでいたのであろう.だから,火祭りの日には誰よりも過敏になっていたのだ.夏芽の想いなんて「好き」と「呪い」でぐしゃぐしゃになっているはずなのだが夏芽自身にもその整理はついていないし,彼女の親も「信じるしかない」と突き進んでしまう.しかし映画はそれを語るでなく適切な体温で撮り続ければいいのだ.

 

4人の中からボクが誰か1人選ぶならコウちゃんだ.彼の「特別さ」は何だろうと思う.自然は好きにしてええんじゃってのは人間が言うから違和感があるだけでコウちゃんはたまたま人間の姿で現世を生きている何かの別の魂を持った青年なんだろう.それにしても山戸結希監督,とてつもないセンスの持ち主だ.また1人注目せねばならない監督さんが現れてしまったなぁ.今年なんべん言ったか分からないが日本映画がほんとうに面白い.おわり