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いずむうびい

テキトーなブログ。

今度会うときもまたねと言おう『映画 聲の形』

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繰り返される波紋の描写は「音の共鳴」であり,その音には発声だけではなく声にならない感情も含まれている.それぞれの「聲の形」が描かれている.自分という人間の輪の広げ方,自分のテリトリーをどこに置いてどこで線引きを行うのか.自分を象るのは他者との距離感でしかなくそれをしなければ人間形成することは難しい.コミュニケーションとは人間形成をしていくうえで必要不可欠なものなのだ.

 

この映画の登場人物はコミュニケーションのスタート地点に戸惑っている.「相手を理解しなければならない」「どうすれば相手に理解してもらえるのか」.始まりはすべて「相手」にあると思っている.だが,コミュニケーションをはかるにはまず「自分の影響力」を知らなければならない.そしてそれを知るには「自分の思い」に正直に素直でなければならない.

 

どうせアイツらにとって自分はこうだからと将也は周囲に✕マークでレッテル貼りをしてしまう.私といるとみんな不幸になるから私は私の本音を出してはいけないと硝子は自分にレッテル貼りをしてそんな姉を想う結弦は姉を想うばかりで自分自身の孤独感やジェンダーから目を逸らしコントロールできないでいる.植野は相手を傷付けることで自分のテリトリーを守り,川井は安全圏に身を置いている安心感を前提にして物を言う.将也が自転車の件で声をかけてくれなければ永束くんは行動に移さなかっただろうし,佐原さんはそんな喧騒から逃げるしかなかった.真柴くんはキャラが薄目に思えるが,彼がどうして石田くんと友だちになりたいなどと言ったのかを思えば,それは石田が自分にとって当たり障りのない存在だと思ったからだろう.全員がそれぞれの波紋,輪,テリトリーに気を配り,どうすればそれを修繕できるのか,解決するには自分以外の誰が適任かといったことばかり考えている.

 

彼らがなぜそうまでしてコミュニケーションをはかろうとするのか.それは「過去の精算」のためだ.小学生の頃は止めることができなかった分かっていても何もすることができなかった.その「やり直し」の物語だ.妙にリアルな描写がされるジェットコースター「ホワイトサイクロン」で佐原さんはこう言う.「あのときは怖くて何もできなかったけど今度は怖くてもやってみようって思う」.長い人生,こうした再チャレンジの機会は誰にでもあるが,それは決して甘くはない痛みを伴うものなのだ.

 

子どもたちの過去と歴史がレールとして敷かれているからそこへ大人たちの介入は難しい.子どもの価値観で「ガキなんて産むんじゃねえよ」と言われれば揉み合いで応対するしかないのだ.しかし,子どもたちの問題はきちんと「責任」という形で大人たちに覆いかぶさることはピアスの血と補聴器の血で表現されている.産んだあとで産んだことを非難されてもどうにもできないが産んだことの責任を負うことはできるはずだ.

 

コミュニケーションは難しい.それが過去に関わるやり直しの事柄であれば尚更だ.しかし自分という人間を曝け出すことができればそれを受け入れてくれる人間は現れるかもしれない.その作業は辛く悲しい無傷ではいられない危うさを孕んでいるがだからこそ通じ合えたときは美しく輝く.『映画 聲の形』はそんな心苦しさと心強さを兼ね備えた山田尚子の現時点での最高傑作だった.時間を見つけて何度も映画館へ行こうと思う.おわり.